四ノ宮めぐりの史跡ご紹介

 京都盆地の南東「都の巽」に位置する山科の北部。古くから奈良街道や古北陸道、東海道に加え、修験などの山の道もが交わる、人々が絶えず行き交う場所でした。平安時代から鎮座するお社やお地蔵さんをはじめ、小さくとも由緒ある史跡が点在しています。


諸羽神社(もろはじんじゃ)

人康親王が隠棲したといわれるほぼ同時期に、甥にあたる清和天皇が創建

清和天皇の勅願により創建された由緒ある神社です。現在は安朱や四ノ宮など地元の氏神として親しまれています。格式高い割拝殿をくぐると神殿のある御垣内まで開け放たれ、誰でも中まで自由に参拝できます。四方それぞれで柏手を打ち一周拝んで帰られる古老の方もいます。神殿の左手奥に神様が降臨される「岩坐(いわくら)」と人康親王が座して琵琶を弾いたと伝わる「琵琶石(びわいし)」があります。祭神は、初め天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)で、この二柱の神は瓊々杵命(ににぎのみこと)が天孫降臨のときの左右捕翼の神々で、両羽大明神と称されました。後に八幡宮、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、若宮八幡宮を新たに祀り、全六柱となり、「両羽」の文字も「諸羽」と改称されました。諸羽神社の一部境内を含む南西が「人康親王山荘跡」として京都市遺跡台帳にも記されています。鳥居をくぐって右の流水は、もともと山からの水でしたが、明治23年に境内の北東を疏水が流れることとなり、疏水(諸羽舟溜まり)からの水を引いていました。その疏水も湖西線の開通にともない昭和45年に諸羽トンネルを直通する流れに変えられた際、現在もトンネル出口のあたりから水を引いているそうです。

交通 山科駅から徒歩8分
所在 四宮中在寺町17
境内 自由参拝
電話 075-581-0269
創建 862(貞観4)年

左:諸羽神社神輿、10月第3日曜に秋大祭   右:氏子社中による献楽


山科地蔵 徳林庵(やましなじぞう とくりんあん)

平安時代の地蔵を安置し山科廻地蔵とも四ノ宮地蔵とも呼ばれています

 徳林庵の起源は、室町時代天文年間に南禅寺の住職であった雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が隠居の寺として、四宮社の南側に開いた寺と伝わっています(『南禅寺住持歴代表』)。境内は現地蔵堂より少し離れた北東に位置し、地蔵尊は当地の住民に守られていましたが、郷士四宮善兵衛の願いで1706(宝永3)年以降、徳林庵が街道沿いの地蔵を管理することとなり、1884(明治17)年大津の施主により色彩が施されました。その頃、国家の廃仏毀釈の波が押し寄せ、徳林庵は無住となり、1889(明治22)年、村人達の立ち会いのもと地蔵堂横の現在地に移転しました。(明治初期の住職・総代連署の府庁届出記録『徳林庵明細書』)1780(安永9)年発行の「都名所図会」に「廻地蔵は諸羽の東にあり、小野篁の作にして、七道の辻の其一つなり。平清盛の命ありて、西光法師の建立なり」と書かれています。お堂の裏手に人康親王と蝉丸2人の供養塔が建っています。

交通 山科駅から徒歩15分、京阪四ノ宮駅から徒歩6分
所在 京都市山科区四ノ宮泉水町16
境内 6時閉門、地蔵堂は格子越し自由参拝、内部見学は要連絡
電話 075-583-0353
創建

1550(天文19)年頃

左:8月22、23日京都六地蔵めぐり 右:御旗や地蔵札の特別授与がある


十禅寺(じゅうぜんじ)

江戸期の女帝明正天皇が再興した聖護院に属する山伏さんのお寺

 仁明天皇の第四の宮、人康親王(さねやすしんのう)を開山としています。四宮家文書や当道要集によると、親王は糸竹(琵琶や笙、詩歌管弦)が得意で常陸大守を務めましたが28歳にて失明、宮中からの失脚を余儀なくされ、この地に隠棲しました。この辺りを四ノ宮というのは、親王創建のこの寺からの発祥といわれています。十禅寺から少し東に路地を入った場所に大きな泉がこんこんと湧いていたと伝え「泉水町」という町名が今に残っています。度々の戦火で焼失しすっかり荒廃していましたが、江戸時代初期、牛に乗りボロを纏ったと比喩される僧、紅玉真慶(こうぎょくしんぎょう)が庵を結んでいたのを、1655(明暦元)年、女帝、明正天皇が霊夢を見て、お堂や鐘堂など伽藍を寄進しました。短冊石などその当時の遺構や明正天皇の画筆や宸翰(しんかん)、身代わり守護人形であった天児(あまかつ)や這子(ほうこ)、蒔絵が施された古い時代の平家琵琶、人康親王琵琶弾き木座像などが寺宝として残っています。

交通 山科駅から徒歩17分
所在 四ノ宮泉水町17
境内 6時閉門、昼間は自由参拝、見学は要相談
電話 075-581-5850
創建

859(貞観元)年

左:11月3日午後2時〜「採燈大護摩供勤集」毎年開催 右:山伏問答法弓法剣の古儀も見応えあり


人康親王墓(さねやすしんのうはか)

JRの高架に沿ってひっそりとあり駐車場の奥まで見に行けます

 若くして両目の視力を失い山科に隠棲したと伝わる仁明天皇の第4皇子の宮内庁墓です。四ノ宮の地名の由来といわれ、人康親王が創建した十禅寺の裏に宮内庁御陵があります。供養塔の形状や立地からみても紅玉真慶(こうぎょくしんぎょう)など十禅寺関係者の墓であろうと推測されますが、明治時代に人康親王墓として整備されました。他方、諸羽神社の参道東脇の月極駐車場あたりから古い時代の高僧の位牌などが出て、出土品は「人康親王山荘跡碑」のある供養塔の場所へ埋められたといいます(中山宮司談)。享和2(1802)年に描かれた絵図(比留田家文書三条街道筋山科郷鹿絵図)を参照すると、ちょうど駐車場と重なる場所に道に面して6間3尺の間口ほどの神宮寺(諸羽別当)の敷地が描かれていました。その出土品がどういうものであったか詳しいことは定かではありませんが、この御所平と呼ばれる辺りに親王の墓はあったのかもしれません。

交通 山科駅から徒歩17分
所在 四ノ宮泉水町17
境内 駐車場からの自由見学、柵内敷地内は入れない
電話 075-581-5850
創建

872(貞観14)年

資料:京都府立資料館所蔵(比留田家文書三条街道筋山科郷鹿絵図)


四宮大明神(しのみやだいみょうじん

十禅寺からさらに奥の住宅街の路地を抜けた知られざる社

 平安初期に三井寺の目の不自由な僧たちに琵琶を教えたという人康親王(さねやすしんのう)、天世命(雨夜尊)を祀る御霊社。徳林庵を開山した雲英正怡禅師(うんえいしょういぜんじ)は四ノ宮家の出身で、隠棲場所を決めたのには「四宮社」の存在がありました。現在の諸羽神社とは別に四宮家のご先祖である人康親王の御霊を祀ったお社で、室町時代の徳林庵開山以降、明治の廃仏毀釈で移転するまで徳林庵境内で守られ「目の神さん」として親しまれてきました。徳林庵が明治に入って旧東海道沿いに移転した後、この「四宮社」は一端宮内庁所領となりましたが、やましな飴屋や石灰、材木等の事業で財を成した松村與三郎が受領することとなり、このあたり一帯を整備しました。「琵琶琴元祖四ノ宮大明神」と刻まれた石の土台裏には「大正4年」の刻字が見え、手水鉢の置き方などからも、大正10年に鉄道がこの地に移された(それまでは現在の高速道路あたりを国鉄が通っていました)際に少し南に場所をずらした経緯が見て取れます。明治23(1890)年以前の疏水開通以前はそのもう少し北側にあったといわれ、享和2(1802)年の絵図(比留田家文書三条街道筋山科郷鹿絵図)を参照すると、現在の山科地蔵堂裏の供養塔の辺りから薮を通って「四宮社(絵図上「実康親王社」)」へ通じる道があり「徳林庵」の境内地であったことがわかります。江戸時代には毎年、旧暦5月5日の命日に当道座の琵琶法師や検校がこの地に集まり琵琶を奉納したそうです。昭和中期以降、その存在がほとんど知られず祠は朽ちかけていましたが、平成24年2月より縁あって園城寺内の宮大工「堀田工務店」に本体部分を修理していただき、3月13日に新しくなった祠の御精魂入式、15日に鎮座式を執り行いました。境内にはこの辺りの「泉水町」の由来である「悔しくて足を擦ったら泉が湧いた」という伝説の残る「御足摺水」があり、現在もわずかですが泉が湧き出ています。中央には役行者の石座像の籠屋が建ち、左手奥には鎌倉時代と推定される石仏が3体祀られています。ここにも座って琵琶を弾いたかもしれないソファのような石や、目をつぶっても形のわかるシマシマの石など、地元産ではない大きな庭石が3つあります。平成25年以降は園城寺の飛び地境内地「泉水町広場」として、お寺と地域住民が協力して末永く守っていくこととなりました。

交通 山科駅から徒歩20分
所在 四ノ宮泉水町10
境内 自由参拝、四ノ宮案内・琵琶演奏体験等は要相談
電話 090-2597-3050(弦楽ふるさとの会 小谷昌代)
創建

872(貞観14)年(伝承)

左:24年3月園城寺福家執事長 御精魂入の儀式
右上:諸羽神社宮司 鎮座式 右下:十禅寺山竹請山伏 護摩供養