写真でめぐる山科千載記

2013年5月に東山ローターリークラブさんが45周年を迎えられ、その式典のオープニングに合わせて山科の歴史を詠み込んだ琵琶唄を創作し演奏させてい ただいたのが始まりです。2007年頃から「やましなを語りつぐ会」の一員として、歴史散策フィールドワークを重ね、由緒ある史跡が数多くあることを知り ました。悠久の歴史が息づく素敵な盆地を多くの方に知っていただくきっかけになれば幸いです(弦楽ふるさとの会 小谷昌代)。

水告ぐる 時のはじまり 天智ヶ森の 傍らに 陶原家 大織冠 山階精舎 興福寺 桓武帝が 眺めせし 都定めの 東山 清水寺と 奥の院 延鎮僧正 田村麻呂

日本有史の原点ともいえるべき
天智天皇の御陵が鏡山を背に佇む
漏刻という水時計を日本で初めて使い
まさに時の始まりを告げたのが天智天皇
天智の側近であった中臣鎌足の屋敷
「陶原家」があったのが山科のどこか…
鎌足弔いのために夫人が建てた「山階寺」は
大宅廃寺(白鳳時代)との説が有力だったが
京大吉川教授の研究により、京都薬大周辺が
それに当たることがほぼ明らかにされた
平安遷都の際、和気清麻呂が盆地を見下ろせる
東山に桓武天皇を案内したとの伝説がある
現在は旧武道場を本堂にした「青蓮院清龍殿」の
舞台や境内に設けられた展望台から一望できる
清水寺縁起、坂上田村麻呂が延鎮と出会った
「音羽の滝」は一里挟んだ山科の音羽山中にあり
古刹「牛尾山法厳寺(牛尾観音)」が佇む
延鎮が夢のお告げに導かれ修行の場に選んだ
霊山には仙人行叡が現れた「天狗杉」が祀られ
「行者ヶ森」の名に相応しく修験の場となっている
田村麻呂の墓も十条通りの南、勧修にある
明治時代に整備されたが、現在は
滑石街道入口付近の西野山古墓が墓とされる

仁明皇后の 安祥寺 東の空に さし昇る
諸羽山の端 月影は 堂宇おぼろに 浮かばせし
あまねく響く 琵琶の音は 心なぐさむ 四の宮
失せししののめ 袖濡らす 小町文塚 小野浅茅

洛東高校の南西、疏水の北にある安祥寺(非公開)
平安時代には山の上にあった上寺と
この山麓一帯に伽藍を誇った下寺があったとされる
その寺を建てた仁明天皇皇后藤原順子の宮内庁墓
毘沙門堂から奥の安祥寺川沿い
大文字登山道入り口付近にひっそりとある
安祥寺伽藍の東に位置する諸羽(両羽)山にのぼる月
仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王も
この山麓に住み琵琶を奏でていたという
諸羽山は柳山、白岩さんとも呼ばれ、
諸羽神社のご神体(神山)であり、
揚柳山十禅寺、柳谷山徳林庵と
寺院の山号としても用いられている
人康親王が28歳で目を患い隠棲したとされる
諸羽神社の境内には(京都市遺跡台帳)、
座して琵琶を奏でた「琵琶石」や「磐座」がある
諸羽神社参道わき疏水公園(諸羽ダム跡)上り口には、
『この付近人康親王山荘跡(洛東ライオンズクラブ)』
の石碑とその裏の窪地に古い供養塔や石仏が立つ
小野小町が殿方らから頂戴した文を埋めたという文塚
数ある告白を退けた背景にどんな思いがあったのか…
そんな小町とゆかりの深い随心院もまた
山科の里にあり、3月下旬に梅林が見頃となる
随心院の歴代の僧侶たちが眠る墓所
ここから見下ろす裾野は平安時代には
和歌にも詠まれる小野の麻地生が広がっていた
時は平安872年、人康親王がこの世を去った日の朝、
山から風が吹き下ろし、小野小町が歌を詠んだ

『四の親王失せ給ひたるにつとめて風吹くに
けさよりは かなしのみやの やまかぜや
また あふさかも あらじとおもへば』

この歌を小町集だからと貶む人もいるが、
袈裟よりは仮名、悲しの宮、逢阪、会う運命(さが)と、
歌の心、巧みさ、響き、どれをとっても
紀貫之をうならせた小野小町がそこに居るような気がする
その裾野には耳塚をはじめとする醍醐古墳群が点在し
現在は東山高校グランドが広がっている

歌詠み遍照 元慶寺 榧に聞こえし 百夜道 観音めぐる 花山院 大宅離宮 後白河 列子高藤 夜雨契り 氷室池端 勧修寺 連理比翼の その雛は 醍醐の帝を 産みにけり

嵯峨天皇に仕えた良岑宗貞(よしみねのみねさだ)は
天皇が亡くなり菩提を弔うために出家して遍昭となった
五条通りの北、花山の地に宮内庁墓が残る
良岑宗貞は小町百夜通いに登場する
深草少々のモデルとも言われ
出家して山科に開いたのが元慶寺であった
元慶寺には趣のある竜宮門が立ち
5月と11月には緑と錦の葉景が境内を包む
良岑宗貞が深草少将かどうかはいざ知らず
小町が数え弔いに撒いた榧の実が
ご神木の大ガヤとなって今も小野の里を見守る
元慶寺は平安中期の花山天皇が洛飾した寺でもあり
西国三十三カ所巡りの、復興者入山の意味を込めて
番外札所(特別な場所)に位置づけられている
大宅には天平時代の大宅廃寺や
後白河法皇の別邸、離宮があったとされている
今昔物語「高藤内大臣の話」に登場する美しい娘
宮道列子(みやじのれっし・たまこ)の墓は
十条通りの南、竹林の円墳に供養塔が立つ
山科の里へ鷹狩りに訪れ、嵐に遭って
一夜の宿を宮道邸に求めた藤原高藤の墓は
勧修寺から大岩街道を挟んだ南東の小山にある
高藤が列子との間にもうけた胤子が
後に宇多天皇夫人となり醍醐天皇を生む
醍醐天皇が母の菩提を弔うため
実家を寺にしたのが勧修寺の起こり
勧修寺境内の氷室池は平安時代の面影をとどめ
杜若、菖蒲、水連と夏は花盛りとなる
醍醐天皇の母をはじめ宮道家の人々や
祖父母列子高藤らを祀った宮道神社
宮道の子孫は後に蜷川家として繁栄した
秋の勧修寺も美しく宸殿は家康の孫明正天皇の御殿
醍醐天皇の母であり、高藤と列子の娘
胤子の宮内庁墓も勧修寺農園付近の
大岩街道北に設けられている
醍醐天皇自身も母の故郷にほど近い
醍醐の地に宮内庁墓がある
その地の名勝、醍醐寺の桜

蓮如守りし 仏国の 栄華を残す 土塁跡 仇討ち目論む 内蔵助 京へと通う 滑り石 明治浪漫を 満々と たたえし運河 疏水辺り ゆたにたゆたに 有り果つる 流るる水の 尊しや

親鸞上人の子孫で浄土真宗中興の祖、
第八代蓮如上人は山科の地に山科本願寺を築き
「さながら仏国の如し」と讃えられた
現在もその城郭の土塁跡が
中央公園、奥田家裏、山階小学校、
西野広見町と4か所ほど残っている
その地縁を尊び
真宗大谷派山科別院長福寺(東御坊)や
浄土真宗本願寺派本願寺
山科別院(西御坊)が建っている
蓮如上人が晩年を過ごした史跡南殿跡や
土塁や竹藪が今も残る南殿光照寺
往生の地と言われる西宗寺
それらの史跡の中央、醍醐街道沿いには
ひっそりと蓮如上人御廟所があり
往時は山科駅からも見えた蓮如銅像が
聳えていたが第二次大戦時に供出された
大石良雄を祀る大石神社
12月14の討入行列(山科義士まつり)は
昭和の始め頃、町の人の手作りで始まった
大石内蔵助が隠れ住んだ場という
岩屋寺の境内には、廃屋材で建てた
茶室「可笑庵」がある
明治18年に着工した疏水は
5年の歳月をかけ明治23年に完成
大津〜岡崎間の約9kmを運河で結んだ
春は桜
秋は紅葉
緑いっぱいの北山科を流れる
京都市民の母なる運河、疏水縁り

いといみじくも 山科の 誇るる郷に 天つ風
千代に八千代に 六道の辻を行き交ふ 破魔波と
東西北斗の山並みに かかる紫雲の 遙遙たらん

三方を山に囲まれた小さな山科盆地
日本有史に誇る天智天皇はじめ
多くの先人の御廟や墳墓が残る神聖な土地
その方々の庇護のもとに今日の暮らしがあることを
今に生きる者は、決して忘れてはならない